“6”だけが、僕らの正解

SixTONESのメモ帳💎

《京本大我》 10000字インタビュー全文

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Myojo 2021年5月号 一万字インタビュー

『僕がJr.だったころ』

 

理想のデビュー像と今

ー1月にアルバム『1ST』を、2月にはシングル『僕が僕じゃないみたいだ』をリリース。リリースごとに新たな音楽ジャンルに挑戦しているのが、SixTONESらしいね。

「ありがとうございます。ジャニーズに入っていちばんの財産は音楽と出会えたことなので、誇れる音楽をやり続けたいって想いが強いんです。デビューを告げられたとき、じつは喜びと同時に不安にも襲われて。デビューすると、やりたい音楽ができなくなんのかなとか、今までのSixTONES、僕らの信じたSixTONESじゃなくなってしまうかもしれない怖さがあったんです。でも、まだ何の実績もない僕らをスタッフさんは信頼してくれた。アルバム収録曲の楽曲選びだけじゃなく、アレンジに関しても意見を取り入れてくれた。本当に恵まれてます。デビュー前に思った理想のデビュー像と今が重なるというか、今すごい充実してる。改めてデビューしてよかったって思いますね」

 

ジャニーズとの縁

ー父親が京本政樹さん、母親も芸能の仕事をしていた。京本くんが芸能界を目指すのは運命づけられていたようにすら思えるよ。

「よくそう言われるんですけど、小さいころは芸能界に興味なかったんです。興味が向かないように育てられたって言い方が合ってるかな。僕、父の出演作品を見せてもらったことがないんですね。両親ともに芸能界の辛さを知ってる。憧れだけでは続かない世界だってことも。だから一度も芸能界を目指せとは言われなかったし、僕自身、ジャニーズのことも、ほとんど知識がないまま育ちましたからね」

 

ーそうだったんだ。

「あ、でも、さっくん佐久間大介)とは母親同士が一緒に仕事をしていたこともあって幼馴染だったり、山田(涼介)くんとも昔、同じ公園で遊んでたらしいです。山田くんのお母さんが“近所の公園で一緒に遊んでたコが、京本政樹さんちのコだった”って覚えてて。同じ砂場で遊んでたらしいんですよね。だからジャニーズには何か縁があったのかもしれないですね」

 

ージャニーズに興味を持ち始めたのはいつ?

「『ごくせん』の第2シリーズが学校でブームになって、KAT-TUNの存在をなんとなく知って、その後、『野ブタ。をプロデュース』で今度は『青春アミーゴ』がクラスで大ブームになったんです。そんなタイミングでジャニーさんから電話がかかってきて」

 

ーハワイのジャニーさん行きつけのお店で、京本くん家族が映った写真が飾ってあって、ジャニーさんがそれを見て“このコ、誰?”ってなったんだよね?

「はい。ジャニーさんから“KAT-TUNのデビューコンサートがあるから見にこない?”って連絡をいただき、“クラスで人気のKAT-TUNを見てみたい!”って軽い気持ちで母と見に行きました」

 

ー最初は観客のつもりだったんだ。

「“サインもらえるかな?”みたいなテンションでしたね。ちょうど、Jr.のオーディションが本番前の会場で行われてて、一緒に踊ってみることになったんです。そしたら、ジャニーさんに“出ちゃいなよ”って言われて軽い気持ちでステージに立ったら、翌日の新聞に写真つきで載ってしまったんです。ジャニーさんに“次の公演もおいで”って誘われたんですけど、家で家族会議が急遽開かれ“大我はどうしたい?”って父に聞かれて。僕はそれまでずっと運動が苦手だったのが、ダンスをしたときに楽しいなって思えたんで直感で“やってみたいかも”って答えたんです。“本当に大変な世界だよ。しかも大我は2世という目でも見られるから苦しい思いもするよ”ってことも言われて。僕はまだ小学生で、言葉の意味もわからず覚悟があるっぽい顔をして“やってみる!”って答え、Jr.の活動が始まったんです。入ってすぐ、父の言ってた意味がわかりました。最初、がっつりイジメられたんで。靴はなくなるし、衣装部屋の“京本”ってネームプレートがゴミ箱に捨てられたり。でも、普段は陰キャラなのに、そのときだけは根性が座ってて、泣いたり誰かに相談するってことはしなかったんですよね。そういうことやっていたコたちって、あっという間にいなくなっていったし」

 

山田涼介への憧れ

ーJr.の活動自体はどうだった?

「山田くんや(中島)裕翔くん、Jr.の最前列みたいな場所に、僕もなんとなくいさせてもらって。ただ歌もダンスも苦手でした。山田くんがピカイチにダンスがうまく見えて憧れたんです。山田くんみたいに踊れるようになりたくて、レッスンの休み時間も練習したり、家のリビングで絨毯が毛玉めっちゃできるくらい練習したり

 

ーがんばったね。

「ただ僕は落ちこぼれでHey! Say! 7っていうユニットからはあふれたんです。そのHey! Say! 7がKAT-TUNのライブのバックにつくことがあったんですけど、山田くんが『探偵学園Q』の撮影で何公演か出られなくなって。本番2日前に“山田の振りつけ覚えて出てくれないか?”って言われ、もう必死で練習してバックについたんです。後になって父から聞かされたんですけど、本番前日の夜、物音がするんで部屋をのぞいたら、僕が寝言でカウントを口ずさみながら踊ってたらしくて。“限界までがんばってんだって思った”って。山田くんのファンには申し訳ないですけど、そのコンサートが映像化されていて、山田くんがいるはずの場所に僕が映ってるんです。山田くんの代役を務めた証が残ってうれしかったですね」

 

ー歌が苦手だったのはホント?

「ホントです。しかも音痴って自覚がなくて、小学校の音楽祭の練習でめっちゃ大声で歌ってたら、先生に“本番はなるべく大きい声で歌わないで”って言われた(笑)。入所して半年後くらいかな。『Mステ』に山田くんがバックで出るのを知ってダンスの勉強のために見ていたら、ジャニーズの先輩たちが歌ってたんです。“あ、歌もカッコいい”って思って、それからテゴマス、NEWS、関ジャニ∞KAT-TUNKinKi Kids、いろんな人のアルバムを全部借りてきて、歌の練習を始めたんですよね」

 

いちばんの逆境

ーじゃあ、Jr.歴14年、いちばんの逆境っていつだった?

「髙地(優吾)の10000字インタビューを読んだんですけど、僕もSexy Zoneでデビューできるかもって瞬間があって。ジャニーさんから突然“ YOUに聞いてもらいたいデモテープがある”って何の曲か明かされず渡されたんです。その後、衣装合わせがあったり、アイドル誌でいつもと違う組み合わせで写真を撮ったり、明言はされないけど、“デビューなのかな?”って思うような出来事が続いたんですね。1、2週間後、ジャニーさんから電話が来て“ YOUどう思う?”って聞かれ、もしかしてデビューのこと聞かれてるのかなって。僕はジャニーズとしての活動はデビューできなければ高校卒業までって考えてたから、ラストチャンスになるかもしれないと思って“デビューできるならしたいです”って答えたんです。そしたら“ YOUはグループじゃないんだよね。ひとりっていうか。協調性がまずない”ってはぐらかされて」

 

ーその言葉はキツかったね。

「“未来、終わったのかな”って思った。そしたらジャニーさんと振りつけ師さんに呼ばれ、帝劇で『Kis-My-Ft2 with ジャニーズJr.』の最終日にSexy Zoneのデビュー発表をすることを聞かされて。ただ、(菊池)風磨が骨折した河合(郁人)くんのサポート役を別会場ですることが急遽決まったから、最後の1日しかこれない。でも本番まで時間がなくて松島(聡)やマリウス(葉)はまだ経験が浅くて4人バージョンの振りつけを覚えきれないから、風磨の位置に入ってくれって」

 

ー代役を任されたんだ。

「はい。でもただの代役じゃなくて、“京本のパフォーマンス次第で急遽6人でデビューってこともあるからな”って心を揺さぶることを言われたんです。急いで歌割り、振りつけを全部覚えて。未完成というか、ほかのメンバーと比べてキラキラが少ない衣装で(中島)健人のシンメで踊ったんです。結局、最終日は昨日まで僕がいた位置に風磨が立って、僕はその姿を舞台の袖からじっとみつめてた。そんときがいちばん心をえぐられたかな。これからはジャニーさんが言ってた“グループじゃなくてひとりで”って方向でやってくんだろうなって」

 

退所を考えた過去

ーでもその後『私立バカレア高校』のメンバーに抜擢され、現SixTONESメンバー6人が脚光を浴びたよね。

勢いありましたね。この6人でデビューできるかもって一瞬思いました。ただ僕は妙に現実主義なとこがあって、ドラマが終わってじょじょに人気に陰りが見え始めたのを感じてた。この6人、もうすぐ解体されてバラバラになるだろうなって空気も。9月に『SUMMARY』を6人でやらせてもらって、最終日に僕は泣いちゃったんです。その涙をデビューに一歩近づいた喜びの涙だと思った人もいた。だけど本当はJr.としてやりきったって感情から流した涙で。人生初の単独ライブをこの6人でできた。きっと6人でステージに立てるのはこれが最後。Jr.人生の最後の最後に見られた奇跡のような夢の景色にあふれた涙だったんです」

 

ー辞めようと思ってたってこと?

『SUMMARY』を最後にジャニーズを辞めようって少し前から思ってて、切り出すタイミングを見計らってたんです。『SUMMARY』を終え、タキツバの10周年イベントに参加して、僕の中で何かが吹っきれた。イベントを終え家に帰り、ジャニーさんに電話で“辞めたいです”って伝えたんです。ジャニーさん、“本当にそれでいいの?”って引き止めてくれて。それでも僕が“はい”って答えたら“自分で決めたことなら止めることはしないよ”って。最後に“ありがとうございました。お世話になりました”って伝えて電話を切ったんです」

 

ー辞めることは誰かに相談した?

「誰にもしてないですね。電話を切ってリビングに行って“辞めたよ”って両親に伝えたら大騒ぎになりました。“重大な決断は一度相談しろって言ったろ”って父は頭を抱えてましたね」

 

ーそこで踏みとどまれたのは?

「ジャニーさんとの電話を切って1時間後くらいかな。振りつけ師さんから電話がきて。“ジャニーさん、慌ててたぞ。本当にいいのか?”って必死に引き止めてくれたんです。その言葉で揺らいで。“俺が間に入るから、まずは思いつきの発言で混乱させてしまってすみませんでしたって謝れ”って言われ少し冷静になれたというか。辞めるにしても今じゃないかもしれないって心が揺らいだんです。次の日、ジャニーさんに会いに行って、“すみませんでした”って謝ったら、“何のことだっけ!?僕なんにも覚えてないよ”って、僕が戻りやすいようにとぼけてくれた。その優しさに僕は涙が止まらなくなって、ジャニーさんがいる限り、ジャニーズを続けようって決めました。大きな借りというか助けてもらったんで」

 

これからはひとりで

ーその後、2014年5月の『ガムシャラJ's party!!』で、バカレア組6人で『Shake It Up』を披露。当時のMYOJOのインタビューで、『この公演をきっかけにバカレアへの未練はなくなった。それぞれの居場所を作ったほうがいい』って発言してる。

「もちろん久しぶりの6人のパフォーマンスを喜んでくれた人たち、待ち望んでいた人たちもいた。ただ、ここにいつまでも執着しているのは違うなって。この6人でしか味わえない素敵な時間が確かにあった。でも、これからもこの6人でって考えは僕のなかではなくなった。“現実を見なきゃ”って

 

ーグループではなく、ひとりでやっていく決心がついたんだ。

「はい。このころ、ジャニーさんに“小池(修一郎)先生演出の『エリザベート』のオーディションがある”って教えてもらいオーディションを受けに行ったんです。そのときは落ちてしまったんですけど、進むのはこの道だなって

 

ーただ、そんなタイミングでジェシーくんと髙地くんがバカレア組を招集。「6人でもう一度やらないか」って声をかけてるよね?

「じつはそのメシ会の前に、ジェシーと髙地に誘われて3人だけで会ってるんです。“ここにいない3人にも声をかけて6人でやろう”って。最初に僕に声をかけたのは、きっと僕だけ気持ちが離れてることに気づいてたんでしょうね

 

自然とこぼれた“6人でやりたい”

ー返事に迷った?

「それが迷わなかったんです。あのふたりって目が真っ直ぐじゃないですか。ひとりでやっていくって決心したはずなのに、“うん、やろう”って言葉が自然と出てきたんです。もちろん勢いで言ったわけじゃなくて、できるなら僕も6人でやりたかった。でもそれは現実的じゃないし、ジャニーさんに言われたように僕にグループは向いてないと思ってた。だから無理矢理にでも5人から心を離そうって決めた。なのに、ふたりの目を見たら、そんなことはどうでもよくなって“僕も6人でやりたい”って答えてた

 

ーそんな経緯だったんだ。

「それから6人でごはんに行って、ジャニーさんにお願いに行ったんです。1曲でいいから6人で歌わせてほしいって。もちろん、その1曲を足がかりにグループ結成やデビューをって野心を抱いてました。だけど大きなことを言える立場にないのもわかってたから、そこは隠して。ただ全部見透かされてましたね。ジャニーさん、“デビューなんか大変だよ。常に売上や順位を気にしなきゃいけない”って、6人の現在地じゃないですけど、厳しいことをたくさん言われたんです。最後に“この6人でいつまでも一緒にいる覚悟はあるの?”って聞かれた。6人が“うん”って答えたのを確認して、ジャニーさん別の部屋に行って“SIX TONES”って書かれた紙を持ってきてくれたんです。すぐ発表どうこうじゃないけど、こういうグループ名の案はあるって。その後、少クラで『HELL NO』を6人で歌わせてもらえて」

 

グループ活動と個人活動の両立

ー少しずつ6人での活動が増えていったよね。

「ただ僕に関して言えば、状況が複雑になったというか。エリザベート』のオーディションに落ちた後、ミュージカルの歌い方を独学で練習し始めてたんです。これからひとりで活動していくことになるって思ってたし、純粋にミュージカルというものに初めて触れて歌い方がすごい魅力的だったんで。そしたら“どうしても役が決まらなかったから、もう一度オーディションをします”って声がかかったんです。再オーディションの日が12月3日、僕のハタチの誕生日でした。後日、再オーディション合格の知らせが届いたんですよね」

 

ー努力が実ったんだね。

「でも、6人でグループになれるようにがんばろうって時期と舞台の稽古が同時進行になってしまった。6人での出番を毎月少クラで少しずつもらえるようになり、『ジャニーズ銀座2015』では6人で公演をやらせてもらうことも決まった。稽古の関係で僕は出られないから出演者は僕以外の5人って発表して。幸運にも稽古が早めに終わり、クリエの初日にサプライズでステージに立てたんです。最終公演の前日だったかな、その日も急遽出られることになって。6人の頭には“シックス・トーンズ”ってグループ名がずっと残ってて、6人がそろうチャンスが次いつ巡ってくるかわからない。今しかないって話し合って、ジェシーをみんなで囲んでジャニーさんに電話したんです。“次の公演でシックス・トーンズってグループ名、発表していい?”って。ジャニーさん、突然すぎて戸惑ってたけど、僕らからしたらラストチャンス。ジェシーがお願いしますって押しきって、“いいよ”って言ってもらえた」

 

ーそして、ステージ上で発表した。

「ただ本当に僕らは子どもで、物事の進め方を一切知らず、スタッフさん誰ひとり伝えないまま、ステージ上でいきなり“シックス・トーンズって名前をもらいました!”って発表しちゃったんです。知らされてない事務所スタッフはもうパニックで。翌日、呼び出されてジャニーさんも来て話し合いが行われたんです。ジャニーさん、“僕が思ってたのとちょっと違うんだよね”って言い出したんで焦ったけど、グループ名が長いからixを小文字にして発音しない、SixTONESにしようって。で、改めて“正式にはSixTONESになりました”ってステージで再発表したんです」

 

SixTONES結成後も、京本くんは『スーベニア』、2度目の『エリザベート』、『BOSS CAT』など舞台に活躍の場を広げていく。

「グループとして大切な時期なのに、稽古や本番のために6人でパフォーマンスができないこともあり、めっちゃ迷惑かけたんです。6人そろっていたら受けられた仕事もいくつもキャンセルしてる。それでもみんな文句のひとつも言わなかった。5人を振り回している感覚というか、グループに貢献できてない。僕がいない5人でのパフォーマンスを見て、5人のほうがバランスいいよなって思ったりもしましたね」

 

ー髙地くんが、“辞めたい”って京本くんに何度か相談されたことがあるって言ってたけど、そんなタイミング?

「そうかもしれないですね。髙地に僕は甘えてる部分があるというか、ふと思ってることを言っちゃうことがあるんですよね。髙地の顔を見てると溜め込んだり、抱え込んでるものが不意にこぼれるっていうか。辞めたかったのはもちろん嘘でも、軽い気持ちでもないんすけどポロッと言ってしまった。自分が貢献できてないって思って辞めたいって話したこともあったし、反対にグループに対しての不満じゃないですけど、僕もできてないとこいっぱいあるけど、5人のできてないことがいろいろ目について、もっと高みを目指すんだったらこれじゃダメだろって辞めたかったこともあった。今思えば、デビューはまだ遠く突破口なんて兆しすら見えなくて不安だったんだと思います。覚えてます。髙地はいつも言ってくれた。“俺は止めないよ。きょもが決めたことなら、どんな決断も尊重する”って。そう言われて、これからもしどんなことが起こったとしても、“このグループには髙地がいる”って思ったら気持ちが軽くなった。そう言ってくれるメンバーがいるだけで救われるなって辞めずに踏みとどまれた」

 

ーなるほど。

「もちろん、ほかのメンバーにも僕は救われてる。最初のころ、メンバーは舞台を見に来てなかったんですけど、じょじょに見に来てくれるようになって、それがうれしくて。欠かさず“応援してるぞ”って声をかけてくれるのはジェシーで、慎太郎なんかは“ミュージカルやってるときの大我はいつもと全然ちがうね”ってよくほめてくれます。メンバーから舞台の感想を聞けたとき、救われたというか、ここまでやってきたのはまちがってなかったなって

 

いつの間にか生まれていた絆

ー一度はひとりでの活動を決めた京本くんからメンバー愛が聞けるのは感慨深いね。

僕はSixTONESになるまで、グループでの活動がなかった。常に個人戦。自分がいちばんよく見えなきゃいけないし、いちばん認められることで少しずつポジションを確立していくってことをずっと繰り返してきた。だから、グループの絆、チームワーク、そういうことと無縁だったんですよね」

 

ーそれが少しずつ変わっていった?

「個人よりもグループとしていちばんいいパフォーマンスをしたいって思えるようになっていった。そう思わせてくれたのはやっぱりメンバーです。SixTONESって、チャラチャラ見えても肝心な部分で熱い人たちで。ふざけていいときは誰かのミスをこれでもかってイジったりするのに、本当に大事な場面で誰かがミスったときは絶対に責めない。“平気、平気!”って笑い飛ばしてくれる。僕は思い詰めちゃうタイプなんで、そんな5人のマインドに何度も何度も救われた。ずっと自分がいちばんにならなきゃと思っていたのが、いつの間にか自分より大切だって思える仲間ができた

 

ーそれを絆って呼ぶんだろうね。

「はい。SixTONESの変な団結感も大好きで、誰かが“おもしろいこと思いついた!”って言い出して、急にみんなでオールバックにしてみたり、私服でステージに立ってみたり。僕らのひらめきはだいたいいつも怒られて、たまにほめられて。散々怒られたのに、懲りずにまた誰かが“思いついた!”って言い出して。そんな青春感みたいなものはグループだから、SixTONESだから感じられたことで。そんな日々を繰り返し、自分自身も心を開いていけたんだなって。僕、ジャニーズに入っていちばんの財産は音楽と出会えたことって最初に言いましたよね。今思いましたけど、本当のいちばんの財産は、メンバー5人と出会えたことかもしれないですね

 

デビューへの不安と喜び

ーその後、2019年6月、ジャニーさんの病室でデビューを告げられる。「不安も大きかった」って言ってたね。

「このチャンスをつかまないわけにはいかない。でも、どんな未来が待っているんだろうって不安もあって喜んでいいかわからなかった。僕の何人か向こうに岩もっちゃん(岩本照)が座ってたんですけど、滝沢(秀明)くんの話が終わって、みんなが椅子から立ち上がった瞬間、岩もっちゃんが僕に握手しに来たんです。パッて。手を握られた瞬間、“あ、喜んでいいんだ”って思えた。僕が入所したのが2006年。同じ年に入所した東京Jr.でデビューできてなかったのは、SixTONESのメンバーを除けば岩もっちゃんだけ。いつの間にか同期、みんな辞めてるんです。同じ悔しさ、同じ絶望、同じだけの時間を過ごしてきた岩もっちゃんと握手して、ひと言も言葉は交わしてないんですけど、デビューできてよかった、Snow Manと一緒に、岩もっちゃんと一緒にデビューできてよかったって心から思えたんですよね」

 

ー両親もデビューを喜んでくれたんじゃない?

「そうですね。なんかふたりともいい意味でツンデレじゃないですけど、手放しで“やったね!”ってタイプじゃない。それでも、心から喜んでくれているのは伝わりました」

 

ーどちらかといえば芸能界入りに反対だったお父さんは、いつから応援してくれるようになったの?

「最初っからです。もちろん多くは語らないですし、なるべく自分ひとりでがんばれってスタンスを貫いてくれました。でも、僕が先輩のバックでマイクを持たないライブにも足を運んでくれてたんですよね」

 

メンバーへ

ーメンバーにメッセージを。まずは(田中)樹くん。

とにかく察する能力が強い人。僕が弱ってるとき、自暴自棄になりそうな時期、いちばん感じ取ってくれた人。そして、何も言わずまずは受け止めてくれる。堀越に転校してからはクラスメイトで、僕は体育が苦手、樹は面倒くさいって理由で、体育があるのに屋上に行って寝転んで時間を潰したりしてた。あの時期、ジャニーズを辞める辞めないでバタバタした後で弱ってた。そんな僕に寄り添ってくれたんだなって今は思う。僕は自己中だし、これからも気を使わせちゃうだろうけど、ちゃんと感謝してるよってのは伝えたいですね」

 

ー(森本)慎太郎くん。

「じつはグループ内でつながりがいちばん長い。入所直後の慎太郎に振りつけを教える係、なぜか僕が任されて。そのときからだからね」

 

ー学園祭に呼んで、「弟です」って紹介したことがあったんでしょ?

「ありましたね。僕が中3で慎太郎は小6かな。張りきった慎太郎が学園祭のスタート前に来ちゃって、しょうがないからホームルームのとき、ベランダに隠れさせたんです。でも担任にバレちゃってカーテンをバッて開けたら慎太郎がゲームをやってた。“君は誰だ?”って先生に聞かれたんで、思わず僕が“弟です!”って言って(笑)。無邪気なのはあのころのまんま。これはSixTONESみんなに言えることですけど、尊敬してるんですよひとりひとりを。正直最初は“は!?”って時期もあった。今ならみんなの凄さがわかる。だから今、慎太郎にいちばん期待してる。まだまだこんなもんじゃないよなって

 

ー髙地くん。

「こんなに仲よくなるとは思ってなかったのが髙地。今、こういう関係になってるのが不思議だよ。僕が“辞める”って言い出したとき、“止めないよ”って言ってくれたけど、内心はめっちゃムカついてたと思う。“大事な時期だろ、今”って。僕は髙地に甘えすぎちゃってるから、いつか髙地の心の拠り所じゃないけど、頼ってもらえる存在になりたいと思ってる

 

ジェシーくん。

「じつは去年あたりからふたりで食事に行くことが多くて、意外に僕がジェシーにしか話してないことがあったり、ジェシーも僕にしかってことがある。いざってときは深くしゃべれる仲かな。改めて言わせてもらうけど、SixTONESジェシーが先頭にいるからここまでこれた。ありがとう。そして、これからもよろしく

 

ー最後に(松村)北斗くん。

メンバー全員を尊敬してるけど、今年、去年は特に北斗をいちばんリスペクトしてます。映画やドラマの撮影、時には3本、4本と同時スケジュールで進行して、それでも弱音は一切吐かない。僕はひとつのことしかできないんで、そのタフさと集中力、憧れるよ」

 

これから

ー京本くんの、これからの夢は?

「多くの人に恩返ししながら、同時にグループで演る音楽、舞台などの個人での音楽、どちらの音楽も、もっと深く掘っていきたいですね」

 

ー個人での音楽のひとつ、昨年主演を務めるはずだったミュージカル『ニュージーズ』の中止は落胆したんじゃない?

「“大丈夫だよ”って強がってもみましたけど、やっぱりすごい虚無感みたいなものはありましたね。1年間ジムやボイトレに通い準備して、『ニュージーズ』のために生きていたと言ってもいいくらいの時間を過ごしてきたんで。『ニュージーズ』の台本、いまだに開くことができなくて。ただ、いろいろ考えたんです。“何がうれしくて活動しているのか?”って。やっぱり僕の舞台を見て“ミュージカルを好きになりました”って言ってもらえたり、“歌を聞いて感動しました”って言ってもらえることがいちばんうれしい。だから、これからもそういう言葉をもらっていくためには、ステージに立つたびに成長していかなければいけない。いつまでも下を向いてられないですね」

 

ー最後にファンにメッセージを。

ファンのおかげで、今めちゃくちゃ楽しくSixTONESやってるよってことを伝えたいかな。僕は口ベタなんで、行動や発表する音楽、作品を通して感謝の気持ちを伝えられたらって思う。あと、ファンをいちばんのライバルだと思ってるってことも伝えたい。僕は臆病な性格で、ちっちゃいころもお遊戯会を休んだり、いろんなことから逃げがちな人間だった。それでもSixTONESになってからは、どんなに逃げ出したくても逃げずに立ち向かってる。ファンの人たちも、逃げ出したくなったり、勇気が出なかったりすることってきっとあると思う。そんなとき、“あんな臆病な京本が、紅白で逃げ出さずに歌ってたな。私もがんばってみよう”みたいに思ってもらえたらうれしい。そう思ってもらえたら、僕もまた逃げずにがんばれる。だからこれからもSixTONESをよろしくお願いします。そして、いつまでも最高のライバルでいてください」